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まるごと〇
振り返れば〇の人生 その4

そうです。
立教大学受験の前日のことです。
兄が、日本史のおさらいをしよう、と言い出します。
兄は、昔から洋の東西を問わず、歴史に詳しかったのです。
ちらっと、「えっ?今更?」なんて、
あまり乗り気じゃない自分がいます。
でも、兄の熱心さに押されて、「ノー」とは言えない私。
問題集をパラパラとめくりながら、要所要所で質問してくる兄。
それに答えられたり、覚えていなかったりする私。
そのときの自分は余裕満々だったのか、焦ったのか、
もう覚えていませんが。
ひたすら兄の質問に答えていたような気がします。
そして、いよいよ「その日」が来ました。
日本史の試験です。
何と、何と、前日兄が問題集の中から拾ってくれた箇所が、
ここにも、あそこにも出題されているではありませんか?
こんなことって、あるの?
すらすら答えられるのです。
日本史の試験は満点に近かっただろうと思えるくらいに、
前日見直したところがどんんぴしゃで出題されているのです!
そして、確信しています。
私は、日本史に助けられた、と。
いいえ、兄に助けられた、と。
かくして、私は立教大学仏文科に合格できたのです。
高校時代の全国模擬試験では、合格の可能性25%しかなかった
大学に、です。
青山学院は、国文科を志望していましたし、
立教でも、仏文科の他に国文科も受験していましたが、
仏文科は、唯一ここしか受けていなかったのです。
幸い国文科も受かり、古典に惹かれていた私は、
国文科に進みたい、と思いました。
でも、ここでまた人生の先輩達がご意見をしてくれるわけです。
国文科を出た場合、就職の可能性は学校の先生くらい、かな、と。
私は、実は将来先生になりたい、という気持ちもあったので、
何の不都合も感じませんでしたが、
親も兄も、そして高校の先生も、もっと可能性のありそうな?
仏文科を勧めるのです。
そんなものか、と、私は人生の先輩に従います。
後になって、万が一、仏文科に受かっていなかったら、
フランスに行くことも、旦那さんのリュックさんに会うことも
なかっただろう、と思うと、
この受験前日のほんの数十分、兄の日本史講義がどんなに劇的なことだったか、
人生の先輩達のアドバイスに従ったことが、どんなに宿命的だったことか、
思わずにはいられません。
天の計らい、でしょうか。
リュックさんに会うことが、
私の人生のプログラムの中に刻まれていたのでしょうか。
そのために、長島さんがいて、アラビア語をあきらめさせる兄がいて、
歴史に強い兄がいて、アドバイスしてくれる人生の先輩達がいたのでしょうか。
こんなことをつらつら考えると、「主体的に生きる」とはどいうことなのか、
と考えてしまいます。
私は、むしろ他の人の意見に左右されて、「そんなものなのかな」と受け入れて、
選択した訳ですから。
かくして、池袋の「蔦のからまるチャペル」と赤煉瓦の学食のある
立教大学一年生になった私です。
~続く~


# by ST-G | 2017-02-24 21:24
まるごと〇

振り返れば〇の人生 その3


いよいよ受験当日です。

正直、全く覚えていません。

(そりゃそうだよ。もう50年前のことだもの)

ただ、人生でそう頻繁に経験したくないドキドキ、

ガタガタ、頭真っ白は、十分味わった気がします。

最初に受けた青山学院の合格発表の日のことは、

よく覚えています。

いくら探しても、私の番号は見当たらないのです。

それまでの人生の中で、最大のショックでした!

番号を見つけてはしゃぐ人たちが、

何ともうらやましく、何ともうらめしく。

ついてきてくれた兄は、「元気出せよ」と慰めてくれて、

うちに電話してくるわ、と、元気なく言います。

北海道で、朗報を心待ちにしている両親の顔が浮かんで、

ますます世界は暗くなりました。

一週間後、今度は本命の立教大学の発表日です。

3月初めのことですが、雪が降っていました。

私は、この一週間、兄の下宿先から一歩も外に出ず、

この世で一番不幸者として、世をはかなんでいました。

おまけに、この雪。

「行くぞ」と声をかけてくれる兄に、

「行きたくない。お兄ちゃん行ってきて。どうせ、だめだよ」

そんなこと言わずに、と、何度も何度も兄に促されて、

渋々会場へ。

怖くて、掲示板を見上げることができません。

「あったぞ!」と、兄の声。

「え?本当?」

「あった~!!」

どん底から這い上がる、とは、このことでしょうか。

もう世界は暗くなく、バラ色に輝いています。

お兄ちゃんに抱きつきます。

私は、歓喜溢れるはしゃぎ組へ

うらやまし組、恨めし組からさっさと抜け出ていました。

それまでの人生の中で、最大の喜びでした!

早く早く、お父さんとお母さんに知らせようよ!と、

兄をせっつく私です。

実は、この合格、兄と一緒に手に入れたものだ、と

今でも思っています。

それは、受験前日のことでした。

~続く~


# by ST-G | 2017-02-23 20:12
まるごと〇
振り返れば、〇の人生 その2

高校3年生にもなれば、卒業後の進路を考え始めますよね。
実は、道内の実業団から、入団?の打診が私のバスケ部の監督に
あったそうです。
私の与り知らぬところでの話で、丁重にお断りしたとか。
後から聞かされて、ちょっとがっかりしたのを覚えています。
バスケットが好きで好きでたまらなかったのですよ。
大学進学にも、あまり関心はありませんでした。
それよりも、アラビア語を覚えたい!となぜか思っていたのです。
どうして?
ピラミッドに会いに行きたかったのです。
なので、アラビア語覚えて、何かしらエジプトを関係のある仕事に
つきたかったのです。
当時、兄は東京の大学に通っていました。
私の希望を聞いた両親は、私がめざすアラビア語の専門学校の話しを
兄にしたようです。
兄は、実際その学校に行って、卒業後の進路等についてリサーチ
しました。
結果、「卒業しても、アラビア語を生かせる仕事はない」
親から私へ伝えられます。
はい、そうですか、と私。
お金を出すのは親。我を通すわけにも行きません。
でも、別に大学に行きたい、とも思えません。
これを勉強したい!というものもありません。
(だって、アラビア語を勉強したいんだもの)
かと言って、すぐ就職、という選択肢も思い浮かばないのです。
大学受験をするとしたら、国立はやめよう。
受験科目が多すぎる。
3科目の私立にしよう。
しかも、当時は国語の他に英語が比較的得意だったので、
英語に比重が置かれている大学かいいのでは?くらいは
考えました。
あれこれ考えて、ある日、ひらめきました!
そういえば、私の憧れる長島さんは立教だった!
立教に入れば、長島さんに会える!と。
かくして、立教大学をめざすことにしたのです。
バスケット三昧の生活に終止符を打ったのは、3年生の秋のこと。
それからの受験勉強です。
当時は、全国共通模擬試験みたいなものがあって、それを受けると、
現在の学力で志望校に受かる可能性がどのくらいか、という
パーセンテージも表示される仕組みがありました。
自慢じゃありませんが、卒業まで「合格の見込みなし」ラインで、
確か、受かる可能性は25%以下でした。
さすがに、無理だよな、と思いつつ、変更、という文字は全く浮かばず、
おまけに、滑り止めに青山学院大学英文科を志望する私。
北海道の乙女は、きっと何も現実がわかっていなかったのだと思います。
いざ立教をめざして、長島さんに会いに行く!と決めても、
もともと大学に入ることにはこだわっていなかったので、
落ちてもいいや、と、のんきに構えていたのだと思います。
受験勉強のために立派な計画表を作り、
毎日のように見直して、またあらたに立派な計画表を作り、
また見直す、という日々を送るのですが、
いよいよ受験のために上京することになります。
当時は、青函連絡船に乗っていざ出陣!です。
まず、青山学院です。
ここは、英語の比重が立教よりも高い学校でした。
そして、3年生の後半から、得意だった英語の成績が
徐々に下がり始めていたのです。
そんな状況の中で、本当に大丈夫なのだろうか、という一抹の不安を
抱えての受験でした。
~続く~

# by ST-G | 2017-02-15 19:43
まるごと〇
振りかえれば、〇な人生 その1

振り返れば、私の人生のある時点まで、「思ったことは迷いなく実行!」
と言った感じで進んでいったような気がします。
やりたい、と思ったら、やる。
できるかできないかは、考えない。
ただやる。そんな感じかな。
たとえば、高校の入学式を待たずにバスケット部に飛び込んで、
それまで経験したこともないようなハードな練習に四苦八苦するとか。
私は、中学の時合唱部に入っていました。
なぜか?
2つ上の姉が入っていたからです。
室蘭市立北辰中学校(確か名前はあっていると思うけど)の
合唱部はNHK合唱コンクールで全国第2位に入賞して、
テレビにまで出たのです。
ブラウン管の向こうで歌う姉の姿に憧れて、
「よし、私も!」と思って入部したのでした。
それはそれなりに楽しかったのですが、
先輩ほどの実力もなく、全国コンクールにも行けそうにない中で、
私は、少しずつバスケットの方に目が行くようになっていました。
というのも、仲のいい友達が何人もバスケット部に入っていたのです。
合唱部の先生に退部をお願いしたのですが、辞めさせてもらえませんでした。
私、いちお合唱部のキャプテンだったのです。
なので、高校に行ったら絶対バスケットだ!という想いを燃やしながら、
合唱部で歌を歌っていたのでした。
室蘭市立清水が丘高校に入学が決まった途端、その高校のバスケット部の
キャプテンを務めていた友達のお姉さんに頼み込んで、
例外的に入学前に入部許可が下りました。
私一人じゃなく友達も焚きつけて、5人くらいで一気に入部しました。
ところがどっこい。
いざ練習に参加してみると、自分に体力が全くないことを思い知りました。
焚きつけた友達は全員、中学ではバスケ部だったので、
比べものにならないくらい体力があります。
これではついていけない、と、私は、自主トレを思いつきます。
学校は、標高180mほど(これでも山かな?)の測量山の麓にあります。
朝の練習一時間前には学校に行って、
その測量山までマラソンすることにしたのです。
もちろん、一人じゃありません。
またもや、友達を焚きつけて、一緒に。
最初は、友達はすたすたと先に走って行くのに、
私はおかしいくらいのろまでした。
何せ、体力、持久力がないのです。
それでも、やめようとは思わないのです。
とにかく、夢にまで見たバスケットです。
コートの中でバスケットがしたくて、走りたくて、ボールを追いかけたくて、
他の人のように。
ひたすら毎朝、寛容な友達に励まされながら走り続ける2週間でした。
そして、迎えた入学式。
筋肉痛満載で出席することになったのでした。
こんな風に始めたバスケット。
一年のうち364日がバスケット漬けの高校生活を送ることになります。
鬼コーチとして有名だった先生の怒号の中で、
とてもとても厳しい練習にめげそうになりながらも、
コートの中を全力で走り切る快感には勝てませんでした。
かくして、大学に行ってもなお続けることになるのですが。
あれから50年!(綾小路きみまろ?)
今なお仲良くしているお友達は、実はあの時のろまな私につきあって
測量山まで一緒に走ってくれたチームメートなんですよね。





# by ST-G | 2017-02-14 21:16
まるごと〇

「お母さんが帰ってくる!」

日本語大賞という賞のホームページで紹介された作文のひとつです。

千葉県冨津市富津小学校の4年生森田悠生君の作文です。


「お母さんが帰ってくる!」

一ヶ月近く入院生活を送っていたお母さんが戻ってくる。

お母さんが退院する日、ぼくは友だちと遊ぶ約束もせず、
寄り道もしないでいちもくさんに帰宅した。
久しぶりに会うお母さんとたくさん話がしたかった。
話したいことはたくさんあるんだ。

帰宅すると、台所から香ばしいにおいがしてきた。
ぼくの大好きなホットケーキのはちみつがけだ。
台所にはお母さんが立っていた。
少しやせたようだけど、思ったよりも元気そうで
ぼくはとりあえず安心した。

「おかえり」

いつものお母さんの声がその日だけは特別に聞こえた。

そして、はちみつがたっぷりかかったホットケーキがとてもおいしかった。
お母さんが入院する前と同じ日常が僕の家庭にもどってきた。
お母さんの様子が以前とちがうことに気が付いたのは
それから数日経ってからのことだ。

みそ汁の味が急にこくなったり、そうでなかったりしたので、
ぼくは何気なく「なんだか最近、みそ汁の味がヘン。」
と言ってしまった。

すると、お母さんはとても困った顔をした。

「実はね、手術をしてから味と匂いが全くないの。
だから料理の味付けがてきとうに
なっちゃって……」

お母さんは深いため息をついた。

そう言われてみると最近のお母さんはあまり食事をしなくなった。
作るおかずも特別な味付けが必要ないものばかりだ。
しだいにお母さんの手作りの料理が姿を消していった。
かわりに近くのスーパーのお惣菜が食卓に並ぶようになった。

そんな状況を観てぼくは一つの提案を思いついた。
ぼくは料理が出来ないけれどお母さんの味は覚えている。
だから、料理はお母さんがして味付けはぼくがする。
共同で料理を作ることを思いついた。

「ぼくが味付けをするから、一緒に料理を作ろうよ。」

ぼくからの提案にお母さんは少しおどろいていたけど、すぐに賛成してくれた。
「では、ぶりの照り焼きに挑戦してみようか」お母さんが言った。
ぶりの照り焼きは家族の好物だ。

フライパンで皮がパリッとするまでぶりを焼く。
その後、レシピ通りに作ったタレを混ぜる。

そこまではお母さんの仕事。
タレを煮詰めて家族が好きな味に仕上げるのがぼくの仕事。

だいぶ照りが出てきたところでタレの味を確かめる。

「いつもの味だ。」

ぼくがそう言うと久しぶりにお母さんに笑顔が戻った。
その日からお母さんとぼくの共同作業が始まった。お父さんも時々加わった。

ぼくは朝、一時間早起きをして一緒に料理を作るようになった。
お母さんは家族をあまり頼りにしないで一人でなんでもやってしまう。
でもね、お母さん、ぼくがいるよ。

ぼくはお母さんが思っているよりもずっとしっかりしている。

だから、ぼくにもっと頼ってもいいよ。

ぼくがいるよ。

いつか、お母さんの病気が治ることを祈りながら心のなかでそうくり返した。

子供の感性と前を向いて生きていく力はすごい!!


# by ST-G | 2017-02-08 17:15



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